W e l c o m e   t o   R 5 6   I M A I   H o m e   P a g e

おやじさんだニャ!

我々に夢・感動・興奮を与えてくれるホンダ。
50年ほど前、ホンダは小さな町工場であった。
その町工場が「世界のホンダ」になる。

本田宗一郎をはじめ、エンジニア達の作りたい物を作る。
それを多くの人に楽しんでもらう。そんな町工場だった。


平成3年 8月5日永眠・現在は富士霊園に眠る!
宗一郎のお墓の場所など、僕たちがお参りに行った時の模様!


本田技研工業の設立者、本田宗一郎氏は子供の頃見た自動車に心ひかれ、
いつか自分の手で自動車を作る夢を持ちます。

その時代は自動車なんか田舎町ではなかなか見かけない物だった。
アート商会で車の技術を習得し、本田宗一郎氏は十分に力を発揮した。
自動車に対する熱意は並々ならぬもので、特にエンジンに関しては
音を聞いただけで不具合が分かるほどの天才エンジニアでした。


本田技研工業株式会社を設立します。

無線機用エンジンを改良して、自転車にとりつけた製品を開発し
試行錯誤を重ねながら次々に魅力ある製品を開発していきます。
このようにバイクメーカーとしてスタートし
やがて、1963年に四輪車の生産をはじめます。
現在に至るまで多くの革新的技術を産みだし、提供してきました。


ホンダのすごいところは、レースに対する情熱です。

ホンダは早い時期からレースに積極的に参加し。
1954年のTTレース、F-1レース、輝かしい記録を残しています。
レースに掛ける膨大な時間と試行錯誤を繰り返し、その技術への姿勢がホンダの魅力なのです。
自動車後進国ニッポンの弱小メーカーであったホンダが、世界のレースに参戦するなど考えられないことでした。
しかも、トヨタ、日産といった大メーカーを差し置いて。


ホンダの作るバイクやクルマは多くの人に愛されています。

作るものには、作る側の人間の並々ならぬ思い入れが感じられる。
「新しく素晴しい技術」「すごいパワーのあるエンジン」
「作りたくて作る」「作りたいものを作る」
あたりまえのようではありますが、非常に難しい事なのです。

最近では、自立歩行の出来るロボット「P-3」を発表しました。
何かやってくれる会社、それがホンダスピリッツ!では。


本田宗一郎 歴史
略歴
明治39年11月17日静岡県磐田郡光明村(現天竜市)で生まれる。
大正11年尋常高等小学校卒業後、アート商会(自動車の修理工・東京・本郷)に入社
昭和 3年(21歳)浜松にアート商会浜松市店を設立し、工場主となる。
昭和 6年(24歳)車輪の木製ホイールに代わる、鋳造製スポークホイールを発明。
昭和 9年ピストンリングの製造を行う。
昭和 7年藤山一郎のクルマ(ルノー)を修理する。
昭和 9年ピストンリング開発開始
昭和10年11月20日磯部さちと結婚
昭和12年(30歳)浜松工業高等学校(現静岡大学工学部)機械科聴講生となる。
昭和14年東海精機重工業(株)入社、同社取締役社長就任。
昭和21年(39歳)本田技術研究所を設立、内燃機関、機械の研究、製造を開始。
昭和21年自転車用補助エンジン通称「バタバタ」を販売
昭和23年 9月24日浜松市板屋町257番地に、本田技研工業(株)を資本金100万円で設立
昭和24年(43歳)「ドリームD型」発表。藤沢武夫と出会う。
昭和27年(45歳)東京都中央区槇町3-3に移転・小型エンジンの発明により、藍綬褒章受章
昭和36年(54歳)自ら研究部門の陣頭指揮を取り、二輪車の世界グランプリレースを制覇。
昭和39年F1に挑戦、V型12気筒1,500CCと我が国初のレーサーを完成させる。
昭和41年(59歳)グランプリレースで5種目で史上初の完全制覇達成。
昭和48年(66歳)本田技研工業社長退任、取締役最高顧問となる。
副社長の藤沢武夫と共に、そのさわやかな、引退ぶりは脚光を浴びた。
平成元年日本人として初めて米国の自動車殿堂入りをはたす。
平成3年 8月5日 逝去。(享年84歳と8ヶ月)


富士霊園に眠る!
宗一郎のお墓の場所など、僕たちがお参りに行った時の模様!


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